ご挨拶

「ヨグとは」の前に

いきなりですが、BORN TO YOG(以下BTY)に、

定義とか理念みたいなものはありません。


なぜなら、BTY本部はBTYそれ自体を、

以下のように位置付けているからです。


それを愛好する方々や、特にそれを伝えるメンバー、

言わば関わる人によって常に育てられ変化していく、

母体とは分離独立した、別の生命体であると。


だとしたら、BTYに意味づけや方向づけは野暮で、

管理下にはおかずに旅をさせる器量こそ、

生みの親には試されている。


各国家にはそれぞれのイメージみたいなものがありますよね。

当然のことながら、良い部分と、決してそうとは言えない部分の両面において。

どこでもいいですが、例えば日本だとした場合、

日本人は、日本人らしさを意識して遵守しているわけではなく、

日本人らしさ違反を罰則規定されているわけでもありません。

でも、紛れもなく「日本ってこれこれこういう国だよね」がある。

そうやって時をかけて根付き、それでいて少しずつ変わりもする、

恣意や思惑を超えて成されたその特徴は、

場合と場面によっては文化と呼ばれることもあります。


文化の背景として、伝統や歴史は、

当然のことながら小さくない影響を与えているでしょう。

が、それ以上でも以下でもありません。

文化の変遷の過程で、規則や知識は、

当然のことながら小さくない成長や保安に貢献しているでしょう。

が、それ以上でも以下でもありません。


伝統や歴史には、崇拝ではなく最大の感謝と尊敬の念を持って。

規則や知識は、目的ではなく手段として必要十分に活用していく。

ただし、BTYはそれ以前の大前提として、

それを愛好したり指導する誰もが、

奔放に存在できる信頼と、失敗を成功の糧とできる猶予を、

当たり前に得られていることが、まず大切と思うのです。


上から決めつけない。人それぞれの違いを称え合う。

なのに、そんな別個性の集合体であるBTYコミュニティには、

BTY"ならでは"の、共通した佇まいや流儀が、

紛れもなくある。


だから私たちは、現在進行形の案内人であるBTYの指導者たちを、

いつだって、自信を持って、前面に押し出しています。

グルでもなく、経典でもなく、正論でもなく、過保護でもなく。


まずは伝え手としてBTYを体現するその指導者一人一人が、

加えてその彼女ら彼らと共にBTYを楽しむその愛好者お一人お一人が、


『BTYとは〇〇な〇〇である』


を、もっとも雄弁に、かつ的確に、

物語っているに違いありません。


一部の権力者による熱弁は、

時として自らの文化を汚すことがあります。

BTY本部は、BTYを伸び伸びと育て、悠々と見守り、

そうすることでこそ生まれる無限の可能性を尊重したい。

だとしたら、コンセプトやオリジナリティの言語化なんて、

安直に見栄え良く、できるはずなどないのです。


2020年9月26日 佐藤ベジ

P.S.そんなこんなで、このBTY公式ホームページも、こうしてお披露目するのに設立から9年かかりました。